代官山に建つ大正時代の家「旧朝倉家住宅」

一人歩き探検旅

今日は、お公家様でも殿様でもない、商人の住まいを訪ねます。

正直に言うと、今シーズンはこれで三回目の訪問です。回遊式庭園の紅葉が今年は遅れていて、タイミングを間違えてしまいました。三度目の正直(^_-)-☆

代官山は、渋谷区内でも屈指の人気エリアで、中目黒駅からすぐ、プレミアムな街として注目されていますが、その一角に嘘のように、静かに佇んでいます。

NHKブラタモリの「東京目黒編」でも紹介された崖の淵にその住宅がありますので、その崖の線、崖線(がいせん)と言いますが、これを利用して上から下へ向けて、回遊式の庭園になっています。

渋谷区のポータルサイトに添付された資料を引用しましょう。

旧朝倉家住宅は、猿楽町の南西斜面を利用して東京府議会議長や渋谷区議会議長を務めた
朝倉虎治郎によって、大正8年(1919)に建てられました。
宅地北側に主屋が建ち、西に土蔵、東に庭門や附属屋(車庫)があります。このうち、
屋、土蔵が重要文化財
です。なお、庭門及び附属屋が附[つけたり]となっています。
主屋は、一部2階建ての主体部を中心に、接客のための応接間、内向きの座敷や茶室など、
機能に応じた異なる意匠でまとめられ、土蔵は主屋に附随しています。
また、一体となる庭園は、崖線[がいせん]という地形を取り入れた回遊式庭園となってい
ます。
主屋では、意匠を凝らした欄間[らんま]や襖[ふすま]、板戸の絵画などを見ることができ、
かつては2階から富士山が望めたといいます。
回遊式庭園には、崖線を利用して三田用水からの流水を導いた跡や四阿[あずまや]の形跡
が残され、多くの石灯籠などの添景物[てんけいぶつ]が配置されています。
土蔵は軸部を木造、外壁を鉄筋コンクリート造としています。関東大震災で外壁が崩落し
たため、現在の状態に修復されました。入口や窓は重量感のある鉄扉で作られています。

重要文化財 旧朝倉家住宅 | 重要文化財 旧朝倉家住宅 | 渋谷区ポータル (city.shibuya.tokyo.jp)

旧朝倉家住宅について

略歴

  • 明治02年(1869) 先代の朝倉徳次郎が三田用水の水車を利用した朝倉米店(精米業)を開業 設けた資金で不動産業にも進出
  • 明治30年(1897) (杉浦)虎次郎が婿養子となる
  • 明治37年(1904) 朝倉虎次郎、政界に進出
  • 大正08年(1919) 自宅として朝倉邸を建設
  • 大正12年(1923) 関東大震災被災、土蔵の漆喰が崩落(のち修復)
  • 昭和18年(1943) 朝倉精米所を廃業
  • 昭和19年(1944) 朝倉虎治郎死去
  • 昭和22年(1947) 相続税支払いのため建物と南側の庭園を中央馬事会に売却
  • 昭和23年(1948) 農林省に譲渡され、農林大臣公邸として使用
  • 昭和32年(1957) 旧経済企画庁の前身である経済安定本部が公邸として使用
  • 平成16年(2004) 主屋と土蔵を国の重要文化財に指定(文科省の所有)
  • 平成18年(2006) 渋谷区が管理

農業を営んでいた先代の朝倉徳次郎が、「米や野菜を作って細々と商売をしていたのでは埒があかない」と、当時周辺に流れていた三田用水で水車を回し、精米業を始めたのが朝倉家繁栄の原点のようです。

周辺の農家から米を買い取り精米して販売し、それを元手に渋谷周辺の土地を次々に買収し、巨額の富を築いたということです。

三田用水を利用して精米業を起こしたところが、ポイントですね。

なお、現在の所有や管理は文化庁や渋谷区らしいのですが、隣接地には同名の朝倉不動産の立派な建物が並んでいます。きっと朝倉家の子孫の方の運営なのでしょう。

三田用水(上水)とは

2016年に放映された「ブラタモリ」の東京目黒編(最近も再放送)でも、この「三田用水」のことが紹介されていましたね。朝倉邸ではなかったですが。

管理人は神田川(神田上水)と玉川上水を辿る旅をしていますので、とても興味があります。少し深掘りしてみましょう。

★神田川を辿る旅(初回編)はコチラのYouTube動画

★玉川上水を辿る旅(初回編)はコチラのYouTube動画

江戸幕府において、江戸市中の人口増加による上水(飲み水)の対策は喫緊の課題でした。1590年から本格的に開削が始まり、小石川上水(のちの神田上水=神田川)と玉川上水が完成しました。

その後、本所上水、青山上水、三田上水、千川上水の四つが加わり、江戸の六上水と言われるようになりました。

ちなみに三田上水は、玉川上水から分岐しています。

ところが、1722年になって突如幕府の方針が変わり、神田上水と玉川上水を残し、残りの四つは廃止されてしまいました。

廃止された理由には、上水が大火の原因になるとか言われたようですが、実際には神田と玉川上水で十分であるとの判断だったようです。維持費もかかりますから幕府財政の立て直しが本音だったのでしょう。

それではなぜ、三田上水は明治の時代まで残ったのでしょうか?

三田上水は廃止になったものの、分水を農業に用いていた周辺農村の願い出により、1724年に三田用水として再開され、周辺の村に農業用水として給水したそうです。

この地にあった大名屋敷はこの水を庭園に引き入れ、優雅を極めたことでしょう。

時代は変わり明治の時代には、水を利用した水車小屋や、海軍火薬工場の動力として使われるようになったそうです。恵比寿駅そばのエビスビールもこの水を利用しました。

そして戦後になるとこの水の利用がなくなり、1974年に三田用水は完全に廃止となりました。

アクセス

東横線、日比谷線の中目黒駅が最寄り駅です。歩いても数分ですが、せっかくなら崖線の目切坂を上ってみましょう。途中の東京音楽大学構内に美味しいカフェがありますから、疲れたら休憩してからでも(^_-)-☆

それではマイYouTube動画でご覧下さい。

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