今日は、文京区小石川にある旧磯野家住宅を訪ねます。
別名、銅(あかがね)御殿と言います。
実はこの旧宅、国指定重要文化財なのですが、日ごろは門を固く閉ざしていて非公開なのです。

いろいろ調べてみた結果、文京区のウェブサイトから情報を見つけたのですが、時々特別見学会を開催しているというのです。さっそく専用サイトで申し込みをしました。
申込用の専用サイトはコチラ
参加費が3000円とちょっとお高いのですが、建物内にも入って見学することができます。数年前までは参加費が800円で、建物内は見学が出来なかったようなので、おトク感はあります。
ツアー係の方のお話だと、オーナーさんの思いを受け、最近、内部の見学もできるようにしたとのことです。
通常は門を閉ざし、主屋の雨戸も全部締め切っているそうですが、ツアーの日にはスタッフ総出で雨戸を開け、準備するそうです。
重要文化財の中でも、官公庁所有または管理の施設は大概見学ができるのですが、法人や一般個人の所有のものは、制限付き公開であったり、閉鎖していたりするところが多いですね。
ただこちらの文化財、建物の内部について個人撮影は可能ですが、SNS等への投稿はできません。ube動画撮影についてもご遠慮いただくよう、主催者からご連絡を頂きましたので、YouTubeのアップについては最小限とさせていただきました。
セキュリティ上の配慮もあるようです。やむを得ないところです。
というので、貴重な体験をしてきました。とにかく、素晴らしいの一言です(^^)/
いつものように少しお勉強してみましょう。
旧磯野家住宅とは
国指定重要文化財です。文化庁データベースから解説文を引用します。
旧磯野家住宅は,実業家の磯野敬が建設した住宅である。主屋は明治42年着工,大正元年竣工で,車寄を備えた平屋建の書院棟,3階建の応接棟,平屋建の旧台所棟などからなる。屋根は銅板葺で,外壁にも銅板を張る。
国指定文化財等データベース (bunka.go.jp)
材料は,国産の吟味された良材をふんだんに使用している。棚,天井,建具,欄間などの造作や意匠,狂いのない塗壁に熟達した木造建築技術の一端が窺われる。
表門は大正2年に竣工で,尾州檜の太い丸太材を柱に用いた四脚門である。
磯野家住宅は,東京に残る数少ない明治末期から大正初頭にかけての邸宅建築のひとつであり、材料・意匠・技法・構成において伝統的な木造建築の技術と明治以降の大工技術の創意とが融合した近代和風建築の作品として高い価値がある。
Wikipediaを引用します。
主屋の屋根と外壁に銅板が張りめぐらされている外観から「銅(あかがね)御殿」とも呼ばれている。施主の磯野敬は、千葉県夷隅出身の元衆議院議員で、「山林王」と渾名された人物であった。建築に際して、磯野は若いながらも優れた棟梁であった北見米造を自ら選び、その下に100名超の優れた職人を集めて作業に当たらせた。磯野が大工側に要望した条件は、寺院風で、地震に強く、耐火性のある住宅を建てることという3点のみであり、建築費用や工事工期には制限を設けなかった。そのため、室内の天井、欄間、建具、棚等の造作には、木曽の檜、屋久島の杉、御蔵島の桑等、国内の吟味された木材が、ガラスには当時最高級とされたベルギーからの輸入品が用いられるなど厳選された建築材料が揃えられ、それらをもとに名人技の職人により建てられたが故に、後の関東大震災や太平洋戦争といった戦災の被害が及ぶこともなく、現在も竣工当時のままの姿を保っている。
住宅はその後、新潟の石油王・中野貫一が譲り受け、さらに戦後、大谷米太郎の長男・大谷哲平の所有を経て大谷美術館に移管された。
旧磯野家住宅 – Wikipedia
旧磯野家住宅に関する情報がネット上でも少なく、詳しい略歴がつかめないのですが、所有の変遷を以下のようにまとめてみました。
- 大正元年(1912) 磯野敬氏により磯野家住宅竣工
- 新潟の石油王、中野貫一氏が所有
- ホテルニューオオタニ創業者の長男、大谷哲平氏が所有
- 日本大学名誉教授、大谷利勝氏が所有
- 公益財団法人大谷美術館に寄贈(大谷美術館は旧古河邸を運営)
大谷氏は今から20年ほど前まで、ご家族でこの御殿に居住し、大切に使っていたそうですから頭が下がります。何といっても重要文化財だけに、エアコンも取り付けられませんね。
この旧磯野家住宅について、興味あるネット記事を見つけました。
隣接のマンション建設に際し、周辺住民と所有の大谷美術館が建築確認の取り消し訴訟を起こしたのですが、そのまま建設は進み、2011年に地裁で敗訴しています。
マンションは建設されました。
歴史的建造物自体を守ることも大変ですが、周辺の環境を維持することは、それ以上に大変なんですね。都心の密集地であればなおさらのことです。隣接地は相続で手放したものと聞きます。なんとも残念なことです。
御殿の後方に借景となって、マンションのクリームの壁がそびえています。皮肉なことですが、大谷美術館では、いまはそのことを受け入れて、より良きものにしていく方針だと聞きます。
また、建設が大正元年ですから100年以上経ちます。外壁の大谷石に傷みが懸念されることから、保存計画などに必要な資金を、大谷美術館がクラウドファンディングで募っているそうです。
参加費の3000円が一助になれば幸いです。

磯野敬について
施主の磯野敬は、千葉県夷隅郡(現在の勝浦)の富豪の長男として生まれ、慶応大学を卒業ののち、家督を継いで造林業を営み財を成したそうです。国会議員も務めました。
この住宅を造る際、棟梁に北見米造という当時21歳の若い人材を抜擢しました。
そして、若い棟梁に課した課題は、
- 時間とカネはいくらかかっても良い
- 寺院風に造ること
- 地震に倒れず、火事で燃えないこと
だったそうです。
造林業の強みを生かして全国各地から最高品質の木材を調達することができたのでしょう。木曽の檜、御蔵島の桑や、屋久島の杉がふんだんに使われています。
また、窓にはめられた大判のガラスはベルギー製の当時ととしては高価なもの。確かにガラスの表面が波打っていました(古いガラスの特徴です)。
畳は、玄関先の一部のものを除き当時のまま、打ち直しもしていないそうです。イグサの良い材料と職人のなせる業でしょうね。
のちの関東大震災や先の戦争、近年の東日本大地震にも耐えられたことは、施主の材料に関するこだわりと、棟梁はじめ大工の確かな技術で建てられたことが方々にうかがえます。
また、「あかがね御殿」の所以である銅板は、軽量で耐久性に優れ、塗装の必要がなく60年以上持つと言われているそうです。一方、当時としても相当高価なものであったはずです。加工の技術者を集めることも含めて、山林王でしかできない芸当でしょう。
※銅板の大部分は今から30年ほど前にふき替えられているそうです。

北見米造について
ウイキペディアから引用します。
北見 米造(きたみ よねぞう、1883年(明治16年) – 1964年(昭和44年))は、日本の建築家、仏師、彫刻家、茶人。名前は米蔵とも書かれる。茶名は宗国。
経歴
大工の修行をして建築や木工技術について修得し、伝統の大工技術と近代的な設計施工技術を身につけたとされ、のちに高村光雲の弟子となる。1904年(明治37年)、磯野敬に腕を見込まれて21歳で棟梁として旧磯野家住宅の施工を担当した。戦後は社団法人茶道文化振興会の初代理事長に就任し、1950年(昭和25年)、新宿区高田馬場に茶道会館を完成させた。
他にも明々庵・静寧亭 の移築を担当するなど、旧家から近代住宅まで幅広く手掛けた。
北見米造 – Wikipedia
スゴイですね。文化人としても北見米造は相当な資質を持っていたことがわかります。
高村光雲の弟子となり仏師を志し、後に建築家となり、磯野家住宅を建て、茶道の初代理事長もやり、高田馬場の茶道会館も建ててしまった。





アクセス
地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅から歩いてすぐ、筑波大学東京キャンパスの向かいにあります。
前述したように、突然行っても屋内に入ることはできません。ツアーに申し込んで参加してください。参加料は3000円と高いですが、十二分に楽しむことができます。
なお、冒頭にご案内の通り、屋内の撮影はアップしていません。YouTube動画も最小限、マイブログの範囲内とさせていただきました。
まあ、ちょっと残念ですが、止むを得ませんね”(-“”-)”
期待薄な動画内容ですが、それでも良ければ見てください(^^♪