船橋送信所跡を訪ねる

一人歩き探検旅

先日は検見川送信所跡を探検しました。

今日は、船橋送信所跡を訪ねます。正式名称を「東京海軍無線電信所船橋送信所」と言います。通称「行田無線」ともいうそうです。

検見川送信所は旧逓信省(現在の日本郵政等)が設置開局したもので、どちらかと言うと「平和利用」に資するものだったと、管理人は理解しています。

それではと、、、

船橋送信所は、正式名称に「海軍」と付きますので、造ったのは、大日本帝国海軍と言うことになります。さてさて、少し物騒になってきましたが、主義主張は抜きにして、近代化産業遺産として純粋な気持ちでレポートしてみたいと思います。

ただ、この歴史的遺産、訪ねてみるとその痕跡がほとんどないのです。

あるのは、跡地の行田公園内に小さな記念碑と説明板、上空からしか確認することができない直径800mのまん丸な広大な敷地なんですね。

一説によると真珠湾攻撃の際の「ニイタカヤマノボレ~」は、この送信所から発信されたとか(諸説あり)いうことで、戦後、なるべくなら全部消し去ろうという意図があったのかもしれません。

記念碑の下の銘板には、広く平和的に利用されたことや、関東大震災では救援電波を出して多くの人を助けたことなどが「ニイタカヤマ~」の電文発信のことの前文に記述されていて、工夫のあとが見て取れます。

戦争遺産も、その反省に立てば、しっかりと正直に反省遺産として残し、見つめることが必要だと、管理人は思っています。もっとも、打電した職員や技術者には責任はまったくありません。念のため。

レポートの模様はマイYouTube動画で公開しています。ぜひご覧下さい。

船橋送信所について

略歴

  • 大正04年(1915) 東洋一と言われた船橋海軍無線電信所(行田無線)を開設
  • 大正05年(1916) 逓信省の無線通信局併設、ハワイ経由で米国との通信開始、大正天皇と米国ウィルソン大統領との電文交換
  • 大正12年(1923) 関東大震災で救助活動の一翼を担う、同年、東京海軍無線電信所船橋送信所に名称を変更
  • 昭和16年(1941) 無線塔を182mの自立式鉄塔6基に交換
  • 昭和16年(1941) 真珠湾攻撃に際し、「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文を送信(諸説あり)
  • 昭和20年(1945) 進駐軍に接収(その後21年間)
  • 昭和41年(1966) 米軍より返還
  • 昭和46年(1971) 設備の解体開始、その後、行田団地や県立行田公園などに開発整備
  • 平成20年(2008) 経済産業省により「近代化産業遺産群」に認定

開設が大正4年とありますから、当時としては破格の設備だったわけです。

ただ、船橋送信所はいわゆる長波による送信であったため、多くの電力と大きな電波塔が必要でした。その後にできた技術的に優れた短波による送信所(検見川送信所など)に、だんだん取って代わるようになったのではないかと思われます。

戦後になり21年間もの間、米軍に接収されていたことになります。今回のレポートでたまたま中年男性から声をかけられました。「ここは米軍の基地があったんですよね」とおっしゃってました。

地元の方にはこの21年間の空白が、何より重い。

ニイタカヤマノボレ一二〇八の真実

真珠湾攻撃を行うことを指令した暗号略号で、正式な暗号文は「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるやー)」です。

ニイタカヤマは、台湾の最高峰の山、新高山(現在の玉山)。当時台湾は日本の統治下にあったため、富士山よりも高い(3952m)と言うことで、日本の最高峰の山として選ばれたのでしょう。

一二〇八は言わずと知れた、真珠湾攻撃決行の日ですね。

ちなみに、映画の題名でも有名なトラトラトラは、「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する暗号略号です。

さてそれでは、この暗号略号がどこから発信されたのか、と言うことを検証していきたいのですが、ザックリ結論から言うと、「諸説あり」なんですね。

いくつかネット検索で出てきた送信所名を記述してみます。

  • 船橋送信所… 今回のレポート地で、上の写真の通り現地の記念碑プレートに明記されている
  • 針尾送信所… 佐世保にある旧海軍の送信所で、現在は国の重要文化財に指定
  • 依佐美送信所… 愛知県にある送信所で、対潜水艦向けの超長波を担当
  • 稚内赤れんが通信所(通称)… 北海道稚内市にある旧海軍の送信所で、電文を中継したとされる

ざっとですが4か所出てきました。最高機密の電文ですから、大本営はどこから打電するなどと公表するはずもありませんので、真実は闇の中。

ただ、船橋送信所は本命中の本命、という気がします。

もっとも、万全を期していくつかの送信所で同時に行った、とする説があるとすれば、そのほうが納得のいくものですね。

船橋送信所の実力

敷地面積約528000㎡、円型の敷地で直径は約800mと言いますから、中に東京ドームが11個分軽く入る大きさになります。

設備は、通信性能で当時最強とされたドイツ製の送信機、真ん中に高さ200mの主塔、周囲に高さ60mの副塔が18基、アンテナ線が36本と、長波運用のため、かなり大規模だったようです。

「あたかも笠のごとし」と言われたそうですから、スケールの大きさが想像できます。

何といっても特筆するのはキレイな円形の敷地であることです。ネットの古い写真を見ると、建設当時、周辺は広大な田園地帯か湿地帯が広がっていたことが想像できます。旧地名も「塚田村行田新田」と言ったそうです。

電波塔だけに、敷地を丸くするのは理に適っていたのでしょう。18基の副塔はその円周に配置されたようです。

主塔はご覧のような高さです。塔を支えるいくつものワイヤーロープがうっすらと見えます。

昭和16年に自立型鉄塔に交換されています。

航空写真がコチラ。再開発後のものです(行田公園管理事務所から借用)。

どうですか? みごとに円形です。テレビの人気番組「なんでも珍~」でも紹介されたようです。

右手に走る線路はJR武蔵野線です。本当にヤボに寸断したものです。現地に行ってみると円形の道路が線路の外側にかろうじて残っていました。武蔵野線の開業が昭和48年ですから、跡地の開発整備の最中のことですね。国鉄のセンスのなさを疑います。

真ん中に走る道路は船橋松戸線。これももちろん、送信所開設当初にはなかったものです。これだけの敷地ですから、中に道路を通すのは、住民の利便性を考えれば、まあ仕方がないでしょう。

左手の少し窪んだところには、諏訪神社があります。神社の歴史は古そうですから、これは神様優先、やむを得ませんね。

アクセス

最寄り駅は、東武野田線塚田駅。ここから行田公園内の船橋無線塔記念碑まで徒歩で約15分。

記念碑は円形のちょうど真ん中あたり、船橋松戸線の道路沿いにあります。公園と公園の連絡歩道橋のたもとにあります。道路を挟んで反対側に説明板と主塔の石垣跡があります。

それでは行ってみよう

さてここからは、動画でお伝えしましょう。必見です!!!

海軍と刻印された石碑(?)も見つけました(動画内にあります)

コチラのマイYouTube動画をご覧ください。

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