浜離宮恩賜庭園は松の緑が海風になびく

一人歩き探検旅

今日は二つの冠を持つ名庭園にやってきました。

特別史跡と特別名勝の二つの指定を受ける文化財は、全国でも九つだけ。首都圏にはここと小石川後楽園の二つだけなんです。

しかも、ここは恩賜が付いています。

旧浜離宮庭園(浜離宮恩賜庭園)について

文化庁の登録名は「旧浜離宮庭園」ですが、一般名称は「浜離宮恩賜庭園」です。恩賜とは皇室(天皇)から授かったものに使われます。

恩賜が付く公園、庭園は全国で以下の通り、七つしかありません。東京圏内だけです。

  • 上野恩賜公園
  • 井の頭恩賜公園
  • 猿江恩賜公園
  • 有栖川宮記念公園
  • 恩賜箱根公園(神奈川県)
  • 浜離宮恩賜庭園
  • 旧芝離宮恩賜庭園

文化庁データベースの解説文を引用します。

もと徳川将軍家鷹狩の場所であったが、後松平綱重の別邸となり甲府屋敷、海手屋敷と言われた。徳川家宣が大改修を加えて、浜御殿と改称し、爾来将軍家の別墅となった。明治3年宮内省の所管に移り浜離宮と称し皇室宴遊の地となった。昭和20年戦災にかかって御茶屋等の建物はすべて炎上したが苑池はよく旧規を保存することを得た。
 北庭及び南庭に分たれ、南庭は海水をたたえた大泉水を中心として景観を整え、また東部及び西部にそれぞれ鴨池を設け東南部、品川湾を越えてお台場と房総の山々、富士見山から西方遙かに富士山を望む等江戸大名庭園の特色をよく保存している。殊に江戸に広く行われた潮入の庭として最も典型的なものである。

国指定文化財等データベース (bunka.go.jp)

東京都公園協会のサイトから引用します。

潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式です。
旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園、旧安田庭園なども昔は潮入の池でした。しかし現在、実際に海水が出入りしているのは、ここだけです。
この地は、寛永年間(1624~1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相 の松平綱重。承応3年(1654年)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得ました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣) が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。
以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。

明治維新ののちは皇室の離宮となり、名前も浜離宮となりました。その後、関東大震災や戦災によって、御茶屋など貴重な建造物が焼失したり樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、昭和20年(1945年)11月3日、東京都に下賜され、整備のうえ昭和21年(1946年)4月有料公開されるに至りました。なお、国の文化財保護法に 基づき、昭和23年(1948年)12月には国の名勝及び史跡に、同27年(1952年)11月には周囲の水面を含め、国の特別名勝及び特別史跡に指定されました。

この公園について|浜離宮恩賜庭園|公園へ行こう! (tokyo-park.or.jp)

ここの池はすべて東京湾から取った海水です。「汐入」と言います。

将軍家の鷹狩場であったことから、二つの鴨場(鷹を飛ばして鴨を捕獲する)が造られています。江戸城の出城としての機能もあったようです。

関東大震災や先の大戦で建物や樹木は焼き尽くされ、特に歴史的な建造物は残されていませんが、往時の雰囲気を忠実に再現されているように感じました。

アクセス

JR浜松町駅から少し歩きます。線路沿いを新橋駅方面に戻る感じで15分ほどです。旧芝離宮恩賜庭園が浜松町駅のすぐそばにありますが、間違えないようにしましょう。

もっとも、芝離宮もメジャーですが…。

この季節ですから紅葉を存分に楽しみたいと言う方は、少し落胆します。建造物に重要文化財クラスを期待しても、ありません。

でも、なんだか心がゆったりと時が流れるような、格調の高さと癒しを感じる庭園です!(^^)!

それではマイYouTube動画でご覧下さい。

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