廃墟の検見川送信所を訪ねる

一人歩き探検旅

戦前の逓信省(現在の総務省、国土交通省、日本郵政、NTT)が建設、開局した歴史的遺産「検見川送信所」を訪ねました。

対外局への通信を目的とした無線通信所で、日本で初めて短波による標準電波を送信した施設として、当時注目を集めました。

アマチュア無線ファンには「聖地」みたいなところなんです。

また、本館デザインは初期モダニズム建築で、DOCOMOMO JAPANに選定されています。

残念ながら、貴重な歴史的遺産であるのに、文化遺産の登録が未だなされていないようです。長崎県佐世保の針尾送信所は、国の重要文化財に指定されていますから、せめて千葉市の指定文化財くらいにはしてほしいものです。

JR新検見川駅から徒歩で現地へ向かいます。

心霊ブームによる破壊やいたずらのため、立入禁止になっていることは事前の勉強で知ってはいましたが、閑静な住宅街を抜けるといきなり、背の高い雑草が広大な敷地一面に覆い茂り、目を疑う光景でした。

「検見川送信所を知る会」などの保存活動が実を結び、再開発が断念されて、屋上の防水工事がされるなど、少しずつ整備が進められているようです。が、地元の方のお話によると、あと10年くらいはこのままではないかと懸念されていました。

現地レポートの模様はマイYouTube動画で紹介しています、ぜひコチラをご覧下さい。

マイブログでは、いつもの通り少しばかりお勉強してみます。

無線通信の背景と世界情勢

無線の黎明期だった大正初期、日本における無線局は船橋磐城の2ヶ所しかなく、1922年(大正11年)にヨーロッパで開催された世界無線電信会議凖備会において、日本に割り当てる予定の周波長を取り消す動きが見られたため、当時の逓信省では大慌てで新しい無線局設置の予算を立てました。

そしてその計画では東京と大阪に各1局の無線局を設置することとされており、このうちの東京設置とされた無線局が、後の検見川無線送信所になったことがうかがえます。

検見川送信所を知る会

引用文中の「船橋」は千葉県船橋市の船橋送信所(現、行田公園とその周辺)のことです。現在は再開発され、行田公園内に記念碑が残るのと、送信所全体の円形地形が外周道路に残っていて興味深いです。真珠湾攻撃の際の「ニイタカヤマノボレ」の送信は、ここからと言うことらしいです(諸説あり)。

「磐城」とあるのは、おそらく福島県南相馬市にあった原町無線塔のことでしょう。こちらもすでになく、無線塔はミニチュア・メモリアルタワーとして制作され、現地に展示されているようです。

新しく計画された二つのうちの東京が、この検見川送信所です。大阪のほうは調べましたがよくわかりませんでした。

短波または短波放送とは

「短波」とは1920年代に登場した、波長の短い周波数の電波のことで、技術革新により、わずかの電力で遠くまで送れるようになりました。

一方、それまでの「長波」は、その特性から長距離まで届く半面、大量の電力と巨大なアンテナが必要だったこと、電波の割り当て数が少なく争奪戦であったことなどから、次第に短波に移行していきました。

短波は現在、衛星放送(BS)や衛星通信(CS)、インターネットにその首座を奪われていますが、地球の裏側まで電波が届くため、特にアマチュア無線家に根強い人気があります。

また身近では、ラジオ日本やラジオNIKKEIなどがあります。管理人は良く、ラニィ・ミュージックを聴いています(^^♪

主な媒体

短波放送
国際放送(日本ではNHKワールド・ラジオ日本)
広域国内放送(全国放送)(日本ではラジオNIKKEI)
洋上航空無線
船舶無線
軍用無線
アマチュア無線
非常通信

検見川送信所について

略歴

  • 大正12年(1923) 逓信省により建設計画が決定、岩槻受信所とともに建設開始
  • 大正15年(1926) 竣工開局、長中短波無線通信を研究、実用化を図る
  • 昭和02年(1927) 日本初の標準電波を発射
  • 昭和04年(1929) ドイツ飛行船ツエッペリン号と交信成功
  • 昭和05年(1930) 日本初の対航空機通信
  • 昭和05年(1930) 日本初の国際放送を成功(浜口雄幸首相による日米英三国のロンドン軍縮会議締結記念放送)
  • 昭和07年(1932) ロサンゼルスオリンピック中継放送
  • 昭和09年(1934) 国際放送を名崎送信所へ移管
  • 昭和15年(1940) 米国に継いで世界2番目の短波標準電波局を開設(短波JJY)
  • 昭和27年(1952) 日本電信電話公社に移管
  • 昭和54年(1979) 業務の全てを名崎送信所へ移管して廃止
  • 昭和61年(1986) 送信所跡地を含む一帯の再開発計画が認可
  • 平成19年(2007) 「検見川送信所を知る会」が中心となって保存運動を開始
  • 平成20年(2008) DOCOMOMO JAPAN選定(日本におけるモダン・ムーブメントの建築の126番)
  • 平成25年(2013) 千葉市による文化財調査実施(現在未登録)
  • 平成28年(2016) 屋上防水工事を実施

検見川送信所の特徴や功績

  • 日本最先端の電波に関する研究や実験が行われ、さまざまな通信技術を培ってきた
  • ロンドン軍縮条約締結にあたって、浜口雄幸首相による日米英三国のロンドン軍縮会議締結記念放送を送受信し、日本各地へラジオ放送を発信した
  • 米国に次いで世界で2番目に、短波による標準電波(短波JJY)を送信した
  • 本館のデザインは東京中央郵便局を設計した吉田鉄郎が担当し、初期モダニズム建築(近代建築)と言われる優れた建築物

検見川送信所のその後

大正12年の開設当時は、周囲にサツマイモ畑が広がっていたそうです。もちろん、テレビやラジオは誕生してもいません。ですから、電波障害と言ったような周辺住民とのトラブルは全くなかったでしょう。

ところが、昭和30年代に入ると高度経済成長が加速し始め、検見川地区も東京のベッドタウンとして、開発が盛んに行われるようになりました。

送信所の周辺にも民家が建ちはじめ、テレビやラジオも普及し始めて、住民とのトラブル(電波障害)が多くなりました。

そこで、送信所側では電電公社(現在のNTT)に周辺の土地を買い取って公園等に開放する案を出したそうですが、実現には至らなかったそうです。

短波通信と言う通信手段は、国策として残していかなければとの強い思いは潰えて、昭和54年に惜しくも閉局となりました。

その後、この跡地がどのように活用されたのか、または捨て置かれたのか、管理人の調査では定かにはなりませんでしたが、近年まで、敷地内部に自由に入ることができたため、心霊ブームと相まって、ずいぶん荒廃してしまったようです。

「検見川送信所を知る会」等の働きかけで、千葉市が再開発を断念(棚上げ?)し、現在に至っています。

ちなみに、検見川送信所が担ったJJY業務は、小金井送信所から名崎送信所に渡り、現在は、福島県のおおたかどや山標準電波送信所と、佐賀県のはがね山標準電波送信所に移管されているとのことです。

電波マンの強い思いが、脈々と受け継がれていることに敬意を表したい思います。

アクセス

JR新検見川駅下車で徒歩約10分

さて、それでは心して現地へ向かいましょう。けっして真夜中にはいかないように(冗談です)

現地レポートの模様はマイYouTube動画で紹介しています、ぜひコチラをご覧下さい。

タイトルとURLをコピーしました