あの、明治丸に乗船する

一人歩き探検旅

今日は格調高く、明治天皇も御召しになったという明治丸(めいじまる)に乗船します。

明治丸は灯台巡視船として日本政府がイギリスに発注し、天皇の乗る御召し船や、練習船としても使用された由緒ある船なのです。

また、小笠原諸島の領有権獲得に、大きな貢献があったことも特筆される歴史的な船でもあります。

その船に乗船します。まぁ、乗船すると言っても、もう動いていませんから…。

日本の現存する唯一の鉄船(鍛鉄で造られた船)として、また船としては初めて、国の重要文化財に指定されています。

置かれているのは東京海洋大学越中島キャンパス内、見学可能です。

まずは、いつもの通り知識装備してから、としましょうか。

明治丸とは…

明治丸の略歴

  • 明治07年(1874) 進水、竣工(イギリスグラスゴーのネピア造船所)
  • 明治08年(1875) 2月横浜港に到着、11月小笠原諸島に明治政府の要人を派遣(これがのち、領有権確保につながる重要な航海となる)
  • 明治09年(1876) 明治天皇の北海道、東北巡幸に供される(7月20日に無事帰港、これが祝日「海の日」の起源となる)
  • 明治12年(1879) 琉球処分(沖縄併合の歴史的事件)で航海
  • 明治20年(1887) 硫黄列島探検航海
  • 明治29年(1896) 商船学校(現、東京海洋大学)に練習船として貸与され、係留する練習船となる
  • 明治31年(1898) 三本マスト・シップ型に改造される
  • 明治34年(1901) 霊岸島(永代橋の袂)から越中島係留地移動され定繋
  • 大正06年(1917) 大型台風で岸に打ち上げられる
  • 大正12年(1923) 関東大震災の罹災者を収容
  • 昭和20年(1945) 東京大空襲の罹災者を収容、同年、米軍に接収される
  • 昭和26年(1951) 浸水沈座し、米軍の接収解除
  • 昭和27年(1952) 浮揚工事を実施
  • 昭和29年(1954) 練習船の任務を解除
  • 昭和44年(1969) 大修理、船内整備し公開
  • 昭和53年(1978) 国の重要文化財に指定(船としての初指定)
  • 昭和63年(1988) 保存修理を開始
  • 平成元年(1989) 一般公開を開始
  • 平成25年(2013) 明治丸海事ミュージアム事業募金を立ち上げ、大規模修理を開始
  • 平成27年(2015) 修復完工記念式典を挙行し、船内を含む特別公開を実施

こういうふうに整理してみると、明治丸のすべてが見て取れますね。

明治丸は、当時の日本国内における最優秀の船であったことから、本来使命の灯台見回り業務の他にも様々な活動を行い、日本の近現代史に業績を残したということなんです。

また、一等飛脚船(急用に対応できる優良船)同様の出来栄えで、特別室やサロンを備えていて、灯台巡視船ばかりではなく、皇室御用達としての役割もあったようです。

年間予算8千万円の時代に、20数億円をつぎ込んだと言いますから、伊藤博文の先見性と言いますか、いまの政治家にはないスケール感ですね。

明治丸の装備と実力

日本に現存する唯一の鉄船(鍛鉄で造られた船)です。

推進装置は、レシプロ汽機(レシプロエンジン)2基という、石炭を焚いてその蒸気で動かす機関と、2本マストのトップスルスクーナー(帆船の一種)という帆装を備えていました。

当時の最新式の船だったわけですが、蒸気機関と帆を持つということで、いま風に言うと二刀流。

さて、明治丸を「汽船」とするか「帆船」とするかですが、伊藤博文の書簡によると「汽船」や「蒸気船」との記述があるようです。

灯台巡視船現役時代は、まぎれもなく「汽船」だったわけですね。

鉄船と鋼船

鉄船とは、船体構造に鉄材を使用した船のことで、主にイギリスでさかんに造られました。それまでの木造船に比べて強度が高く、大型化も出来たそうです。

日本では、明治4年(1871)に佐渡で建造された新潟丸が最初だそうです。新潟丸の資料を探したのですが、それに関するネット記事は出てきませんでした。残念。

そののち、ヨーロッパでは鉄よりも強度がさらに高い、鋼船(こうせん)が使われるようになります。

ザックリと言うとこんな感じ。

木造船→鉄船→鋼船(現在の主流)

ここで疑問点。「鉄」と「鋼(はがね)」の違いはなんでしょう?

船は造船技術の進歩に伴って木造船から木鉄交造船,鉄船,さらに製鋼法の発明と改善によって鋼船へと推移してきました。

現在の大型船は鋼船が一般的で,タービン機関やディーゼル機関を推進力としています。

1868年イギリスでは、鉄に炭素を2%ほど含ませた合金=鉄より材料強度がすぐれているを、鉄より2割方少い厚みでよいと認めました。 それ以降、鉄から鋼船へと移っていくことになります。

日本でも,明治23年(1890)、長崎造船所で鋼船「貨客船筑後川丸」が進水しました。現在は小型船以外は,ほとんど鋼船となっているそうです。

いまでは、一般的に鉄と呼ばれる金属は、実は「鋼」だそうです。鋼は鉄に炭素を加えた合金であり、通常0.02~2%程度添加されています。一方の鉄ですが、非常にもろく、酸化しやすいので、いまでは見ることがないそうです。

さて、その鉄製の明治丸ですが、

Wikipedia記事を抜粋して引用

当初は外輪船(水車型の装置の外輪を使う)とする計画だったようですが、スクリュープロペラ船として建造されたようです。

帆装は2本マストのトップスルスクーナー(帆船の一種)、1898年に品川にある緒明造船所で3本マストのシップに改造されました。

甲板は2層構造で、主甲板は当初細かく区切られて客室が配置されていました。後に、明治天皇のための御座所として、公室・寝室・浴室の3部屋が右舷後方に設けられました。御座所内の板絵は戦後の接収の際にペンキを塗られましたが、後に復元されています。

主甲板の最後部にはサロンがあり、マホガニーのテーブルが展示されています。1892年の修理で従来の操舵室が海図室となり、上甲板に操舵室が設けられました。

下甲板には石炭庫とレシプロ機関2機が設置されていたが、1927年に取り外され、技業練習場が設けられました。

1878年にグラスゴーで試運転が行われ、排水トン数1235トンで、速力12.66ノット、指示馬力1450馬力を記録しています。

明治丸と小笠原諸島

なかでも明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に、日本政府の調査団を乗せ、英国船より早く小笠原に到達しました。このことによって、小笠原諸島はわが国の領土となったのです。その後の沖ノ鳥島、南鳥島の領有を含め、日本は領海と合わせて世界第6位となる447万k㎡の排他的経済水域を確保することとなりました。その約3分の1に当たる約150万k㎡が東京都小笠原村に属しています。

https://www.kaiyodai.ac.jp/overview/facility/meijimaru/

山田廸生著「名船発掘」によると、

明治丸は横浜港到着後、11月には小笠原諸島の領有権確定のため、調査団を乗せて現地へ航海しました。当時、小笠原諸島には少数の欧米系人が定住しており、領有問題が生じていました。

新造の明治丸は、11月21日に横浜を出航し、24日の朝に父島二見港に到着しました。

一方の英国公使パークスの指令により総領事は、それより一日遅れて横浜港を出港し、小笠原に向かいました。ただ、英国船は砲艦と言っても木造船の旧式であったため、到着は二日後の26日だったそうです。

明治丸の操船技術と性能が劣っていれば、英国船に先を越されていた可能性があるのです。

これにより、領有権交渉を優位に進め、小笠原諸島の領有を勝ち取り、現在の世界第6位の排他的経済水域を獲得することができたわけですね。

東京海洋大学について

明治08年(1875)に、大久保利通が岩崎弥太郎に命じて設立された、三菱商船学校がのちの東京商船大学です。東京大学の設立よりも早いらしいです。

明治21年(1888)に、大日本水産会水産伝習所として設立されたのが、のちの東京水産大学です。

どちらも海洋系の大学では名門中の名門。その二校が平成15年(2003)に統合し、名称を東京海洋大学と改め、開学しました。

キャンパスは、明治丸のある越中島と、港区港南にあります。越中島が旧東京商船大学で、港区が旧東京水産大学です。

少数精鋭主義の人材育成だそうで、海洋国家ニッポンを支えていく若者たちを多く輩出し、頼もしい限りですね!(^^)!

いよいよ明治丸に乗船

明治丸乗船には、団体以外は特に予約は必要ありませんが、見学曜日が特定され、ガイドの同伴でないといけないルールになっています。

それでは乗船開始ですが、この先のレポートはマイYouTube動画でご覧下さい。

YouTube動画はコチラ

タイトルとURLをコピーしました