野木町煉瓦窯を訪ねる

一人歩き探検旅

今日は、野木町煉瓦窯、正式名称/旧下野煉化製造会社煉瓦窯(しもつけれんがせいぞうかいしゃれんががま)を訪ねました。

栃木県にあるのですが、いちばん南の埼玉県に近い地域(古河市/野木町)にありますから、東武線とJR宇都宮線で軽く日帰りです!(^^)! 

渡良瀬遊水地の近くです。

正式名称よりも「野木町煉瓦窯(のぎまちれんががま)」、こちらのほうが、地元の方にはなじみがあるようです。自治体の野木町(下都賀郡)が力を入れて管理運営しているからでしょう。

いち早く国指定の重要文化財になっており、近代化産業遺産(経産省)にも登録されています。

なぜここに行きたくなったかと言いますと、これまで訪ねてきた近代化遺産(浦賀ドック、千代ケ崎砲台、猿島、など)に、煉瓦が重要な役割を担っていたことなんですね。

レンガ積みには主に、フランドル(通称フランス)積みイギリス積みがあることや、明治期の文明開化に急速にブームになり、そして急速に廃れていったことなど、けっこう奥が深い。

そして、大量生産を可能にしたホフマン式輪窯とは?

それでは、いつものようにまずは知識装備と行きましょう。

煉瓦、レンガ、Brick とは?

煉瓦の歴史

イギリスの有名な童話「三匹の子豚」では、それぞれ藁と木と煉瓦で家を造った子豚たちのうち、藁の家と木の家の子豚がオオカミに喰われ、強固な煉瓦の子豚が助かったというお話でしたね。

煉瓦の歴史は、遠くメソポタミア文明(紀元前4000年)には存在していたそうで、粘土に藁と小石などを混ぜて天日干しにしていたそうです。

西洋におけるその後の煉瓦繁栄は、いまも残る数々の建造物遺産で観ることができますね。

我がニッポンでの歴史はというと、、、

飛鳥、奈良時代には「セン」と呼ばれ存在し、平城宮(710年)建設でも使われたそうです。その後、日本の風土に合わなかったのでしょうか、廃れてしまいました。高温多湿で地震国のニッポン、三匹の子豚の藁や木の家のほうが快適だったようです。

煉瓦の建造物が再び現れるようになったのが、明治の文明開化です。西洋風建築物や構造物(橋梁など)が多く建てられ、その材料として煉瓦が使われるようになります。

ところが、転機が訪れます。

関東大震災で、煉瓦の建築物がことごとく壊れてしまいました。高さ39mの浅草「凌雲閣(浅草十二階)」が半壊し、取り壊されたのは当時かなりのインパクトがあったようです。

先日レポートした「旧三河島汚水処分場ポンプ場施設」で触れましたが、旧三河島~は、鉄骨鉄筋コンクリート造りだったので、大震災時にはほとんど被害がなかったそうです。

煉瓦積みについて

建築構造としての積み方にはフランドル(フランス)積みイギリス積みなどがある。

正面から見たときに、一つの列に長手と小口が交互に並んで見えるのがフランドル積み。一つの列は長手、その上の列は小口、その上の列は長手、と重ねてゆくのがイギリス積みである。イギリス積みは厳密には角にあたる部分の手前にようかん (Quarter) が入るが、この部分に七五を用いて処理している場合にはオランダ積みと呼ぶこともある。

日本では、フランドル積みの方がより優美に見えるが、手間がかかり、構造的にはやや弱くなるという説が出されたことから廃れた。

このほか、長手積み (Stretcher Bond) とは全ての列に長手だけが見えるように重ねる積み方で、小口積み (Header Bond) とは全ての列に小口だけが見えるように重ねる積み方である。歩道などにレンガを敷く時は、市松模様や網代模様も見られる。

表面に化粧煉瓦を置くこともあり、必ずしも躯体が煉瓦積みの構造体ではないもの(鉄筋コンクリート構造体や鉄骨ラーメン構造体など)がある。

煉瓦 – Wikipedia

日本にはまず明治の初めにフランドル積みが導入されたが、明治19年以降からイギリス積みに変わっていったということです。

猿島砲台は明治14年起工ですから、フランドル積みが使われています。一方、千代ケ崎砲台は明治25年起工ですから、イギリス積みです。

さてここで質問。明治32年建造の浦賀ドックはどちら積みでしょうか?

正解は「フランドル積み」。造られた年代からするとイギリス積みの時代なのですが、どうも担当した設計技師がフランス人だったとか(諸説あるようですが…)

野木町煉瓦窯のレンガ積みは、イギリス積みとフランス積みが混在。もしかしたら当時の設計者の遊び心かもしれませんね。

旧下野煉化製造会社煉瓦窯について

かつて野木町の近代産業を支えた、旧下野煉化製造会社の工場の一部が保存されています。

国の重要文化財に指定されている煉瓦窯は、「ホフマン式円形輪窯」といい、明治23年に作られました。
現存するものの中で、唯一完全な形を保っている貴重な産業遺産です。

この野木町には、近くに渡良瀬遊水地があって良質な粘土が産出でき、利根川(渡良瀬川)を使った水運にも便利だったことが、工場誘致に最適だったのでしょう。

詳しく見ていきましょう。

略歴

  • 明治21年(1888) 三井物産等の出資により下野煉化製造会社設立
  • 明治22年(1889) 野木村大手箱で製造を開始(東輝煉化石製造所)
  • 明治23年(1890) ホフマン式輪窯(わがま)の東窯が完成 (現存)
  • 明治25年(1892) 同、西窯が完成 (関東大震災で倒壊)
  • 明治26年(1893) 社名を「下野煉化株式会社」に改称
  • 昭和46年(1971) 社名を「シモレン株式会社」に改称
  • 昭和47年(1972) 需要衰退により赤煉瓦製造販売を中止
  • 昭和54年(1979) ホフマン式東窯が国の重要文化財に指定
  • 平成13年(2001) シモレン株式会社倒産
  • 平成18年(2006) 野木町に寄附
  • 平成19年(2007) 近代化産業遺産(経産省)に指定
  • 平成23年(2011) 修復工事を開始

ザックリとこんな感じですが、煉瓦製造衰退の歴史の一場面を垣間見ることができますね。

明治から大正、昭和と、工場や鉄道建設などに大量に供給し続け、近代化のニッポンを支えたことは忘れてはいけない紛れもない事実であり、貴重な産業遺産なんです。

ホフマン式輪窯とは

昭和26年(1951)には、全国に50基のホフマン式輪窯が存在したと言われますが、現在は4基が残るのみだそうです。

現存するホフマン窯

  • 本件… 国の重文指定(1979年) 一般公開中
  • 旧日本煉瓦製造… 国の重文指定(1997年) 埼玉県深谷市 渋沢栄一創業 一般公開中だがそのうちホフマン窯は修復中で見学不可
  • 旧中川煉瓦製造所… 登録有形文化財 近江八幡市 私有地につき見学制限あり
  • 旧神崎煉瓦… 登録有形文化財 舞鶴市 私有地につき見学制限あり

こうしてみると、現在のところ完全な形で見学できるのは、どうもここだけのようですね。

ホフマン窯(がま)は煉瓦を焼くための施設である。ホフマン式輪窯とも。ドイツ人技師ホフマン(Friedrich Hoffman)が考案し、1858年に特許を取得した。

通常の煉瓦窯では、焼成前の(生の)煉瓦を入れて焼きあげ、熱が下がってから煉瓦を取り出し、また生の煉瓦を入れ…といった工程で、火を点けて消し、を繰り返すことになる。ホフマン窯では、窯を環状(円形、楕円形等)に配置して、連続して煉瓦を製造できるようにしたものである。窯の内部に生の煉瓦を積み重ね、上部からコークスを入れて焼成する。一つの区画で焼き上がると、また次の区画に火を移して焼成を繰り返してゆく。こうした連続工程により煉瓦の大量生産ができるようになった。

ホフマン窯 – Wikipedia

Wikipediaによると、大量生産ができる画期的な窯だったようですね。

野木町煉瓦窯の煉瓦が使用された主な建築物

  • 結城酒造煉瓦煙突(結城市)
  • 西堀酒造煉瓦煙突(小山市)
  • 野木町煉瓦窯
  • 旧新井製糸所煉瓦蔵(野木町)
  • 旧谷中村排水機場跡(野木町)
  • 日本鉄道会社(橋脚、トンネルなど)
  • 日光金谷ホテル(日光市)
  • 足尾銅山(日光市)
  • 東京駅(一部のみ/主体は日本煉瓦製造製)

探検スタート

アクセスですが、最寄駅からはかなり距離がありますから、車での訪問が良いでしょう。足に自信のある方は、JR宇都宮線古河駅から徒歩約40分です。

それでは、行ってみましょう。いつもの通り、マイYouTube動画でご覧下さい。

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