三菱財閥の大邸宅、旧岩崎邸庭園を訪ねる

一人歩き探検旅

今日は、三菱の創業者である岩崎家の大邸宅を訪ねます。何度か来ているのですが、今回は特別に大邸宅の洋館地下を観ることができる日なので、満を持してやってきました。

より詳しくレポートしたいと思います(^_-)-☆

旧岩崎家住宅について

三菱財閥の創始者と言われる岩崎弥太郎の長男である、岩崎久弥の大邸宅です。

岩崎弥太郎は土佐の国安芸郡(現、安芸市)の生まれで下級武士、明治維新において活躍したおなじみの人物です。土佐ですから、同じ下級武士の坂本龍馬や武市半平太、後藤象二郎などとも関係が深く、司馬遼太郎の小説にも度々登場してきます。

幕末維新大好きな管理人にとっては、押さえておきたい人物なのですが、渋沢栄一と同様、「金儲けの達人」としてのイメージしかありません(笑)

とは言え、弥太郎は胃がんで50歳で亡くなっていますから、三菱財閥を名門に育て上げたのは、弟の岩崎弥之助であり、長男の久弥であると言われています。

その久弥の大邸宅がこの岩崎邸なのです。

邸宅の歴史

江戸時代には越後高田藩榊原氏、明治初期には舞鶴藩牧野氏の屋敷であったとされています。

その後一時期、西郷隆盛の部下(と言うより腹心)であった桐野利秋(別名/中村半次郎)の邸宅にもなっていたようです。桐野敏明は「人斬り半次郎」と恐れられた薩摩藩の志士で、西南戦争で最後まで西郷隆盛と生死を共にした人物です。

ちなみに、池波正太郎の小説に同名のものがありますし、司馬遼太郎の「翔ぶが如く」にも重要人物として登場します。

その桐野利秋が住んでいたとは、とても興味深いです。

横道に逸れる前に、岩崎邸のその後の略歴を簡単にみてみましょう。

  • 江戸時代末期まで譜代大名の榊原家の藩邸(大名庭園)
  • 明治維新で譜代大名の舞鶴城主牧野弼成に譲渡
  • 一時期、桐野利秋(薩摩藩士)の邸宅
  • 明治11年(1878) 岩崎弥太郎がここに屋敷を構える
  • 明治15年(1882) 弥太郎死去
  • 明治29年(1896) 長男の久弥が現在の洋館、和館、撞球室などを竣工
  • 昭和20年(1945) 米国中央情報局に接収される
  • 昭和22年(1947) 財産税の物納で国有財産へ
  • 昭和23年(1948) 久弥転居 立教大学系の聖公会神学院が買い取り
  • 昭和28年(1953) 米軍から返還 最高裁が買い取り研修所へ
  • 昭和36年(1961) 洋館と撞球室が国指定重要文化財へ
  • 昭和44年(1969) 和館が国指定重要文化財へ 和館の一部を解体し敷地内に司法研修所庁舎を建設
  • 平成16年(1994) 管理を文化庁に移管
  • 平成13年(2001) 管理を東京都に移管
  • 平成15年(2003) 通年公開を開始

司馬遼太郎の街道をゆく37「本郷界隈」で、司馬は夏目漱石の「吾輩は猫である」を引き合いに出しながら、岩崎邸について語っています。

なお、司馬の本郷界隈はマイYouTube動画でレポートしていますからぜひご覧ください。

この「街道をゆく37」ですが、岩崎邸の歴史についての雰囲気が伝わってきますので、以下、原文のまま引用します。もうしばらくご辛抱ください(^^♪

司馬遼太郎が見た岩崎邸(街道をゆく37本郷界隈より)

夏目漱石は「猫~」に岩崎弥太郎を登場させています。司馬はそれを引用し、

(苦沙弥先生の姪の話として、石地蔵と格闘させた話で)

今度は大金持ちの服装をして出てきたそうです。今の世で云うと岩崎男爵の様な顔をするんですとさ。可笑しいわね。

岩崎男爵とは岩崎弥太郎のことです。司馬の分析が続きます。

ただし、漱石が「猫」を書いたころは、この土佐出身の豪邁な実業家はすでになく、屋敷のあるじは嫡男の久弥という、控目でもの静かな四十前後の人物であった。

司馬がこの岩崎邸を訪ねたのは平成に入ってからだと思われますが、

この邸は戦後の財産税の物納によっていまは国家の財産になっている。邸内ぜんたいが司法研修所としてつかわれているから、建物や林泉の管理はゆきとどいているはずである。

当然ながら、なかに入るには手続が要る。そのことをあらかじめ終え、日時を期して出かけた。

なるほど、門を入ると、広大なものである。芝生がひろく、すみずみの林が下界をさえぎっていて、庭を見るだけでも大したものである。正面の洋館は、明治の記念的な西洋館として、1982年六月発行の郵便切手にもなった。竣工は明治29(1896)年だから、「猫」が書かれる九年前で、近隣の評判だったにちがいない。

司馬は江戸時代の所有者についても述べています。

ところで、「岩崎久弥伝」は、この土地の江戸時代の歴史については、薄情である。この屋敷地は、もとは榊原家の藩邸であった。家康の江戸入りから幕府瓦解まで三世紀ちかく一貫してこの藩邸でありつづけた。

榊原家とは徳川の譜代大名で、榊原康政の時代に家康の有力な家臣となります。NHK大河ドラマ「どうする家康」でも登場します。

なおも続きます。

幕府瓦解とともに、榊原家はこの藩邸を、おなじ譜代大名の舞鶴城主牧野弼成にゆずった。その事情は、維新のどさくさの時期だから、よくわからない。

牧野弼成とは丹後国田辺藩(のちの舞鶴藩)の第10代藩主(最後の藩主)です。

その前後、維新早々のころの薩摩の代表的な軍人で、のちに西郷隆盛をかついで西南戦争をおこした陸軍少将桐野利秋が、わずかな期間ながら、ここに住んでいたといわれている。

司馬は、桐野利秋がこの藩邸の全部に住んでいたとは思えないとしたうえで、岩崎久弥伝という書物から引用し、岩崎弥太郎は桐野敏明の邸宅跡に「雛鳳館」という学寮を設け、久弥などの子弟を住まわせていたとしています。

まだまだ続きます。

この岩崎邸が、戦後、財産税で物納されたことはすでにふれた。その前の段階がある。

戦後の占領下時代、米軍に接収されて、ここに中央情報局の出先機関が置かれていたのである。ジャック・Y・キャノンという佐官が長であった。このため、”キャノン機関”ともよばれた。その任務は、アジアにおける共産党活動の情報あつめだったことはよく知られている。

ちょっと物騒な展開ですが、久弥はその一室に間借りのようにして暮らしていた、とも司馬は指摘しています。このキャノン機関、野卑でかなり乱暴だったようです。

邸内に娼婦を連れ込んだり、庭園の樹木に向かって弾丸を打ち込んだり、はたまた、日本人スパイ容疑者を邸内に拉致監禁したり、横暴、好き勝手にやっていたらしい。

久弥が憤慨していたというのも理解できます。なんとも切ない話ですね。

「吾輩は猫である」のころの岩崎邸は、のどかだった。この邸は明治国家の勃興を見、その没落も見、敗戦後の荒みまで見たのである。

司馬はそう言ってこの項を締めくくっています。

洋館について(国指定重要文化財)

東京都公園協会のサイトから引用してみます。

ジョサイア・コンドルの設計により、1896年(明治29)年に完成した。17世紀の英国ジャコビアン様式の見事な装飾が随所に見られ、イギリス・ルネサンス様式やイスラーム風のモティーフなどが採り入れられている。洋館南側は列柱の並ぶベランダ(東南アジアの植民地で発達したコロニアル様式を踏襲)で、1階列柱はトスカナ式、2階列柱はイオニア式の特徴を持っている。また、1階のベランダには、英国ミントン製のタイルが目地無く敷き詰められ、2階には貴重な金唐革紙の壁紙が貼られた客室もある。岩崎久彌の留学先である米国・ペンシルヴァニアのカントリーハウスのイメージ も採り入れられた。併置された和館との巧みなバランスは、世界の住宅史においても希有の建築とされている。
往時は、主に年1回の岩崎家の集まりや外国人、賓客を招いてのパーティーなどプライベートな迎賓館として使用された。

https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/view035.html

撞球室(どうきゅうしつ)について(国指定重要文化財)

東京都公園協会のサイトから引用してみます。

コ ンドル設計の撞球室(ビリヤード場)は、洋館から少し離れた位置に別棟として建つ。ジャコビアン様式の洋館とは異なり、当時の日本では非常に珍しいスイス の山小屋風の造りとなっている。全体は木造建築で、校倉造り風の壁、刻みの入った柱、軒を深く差し出した大屋根など、アメリカの木造ゴシックの流れを組むデザインで ある。洋館から地下道でつながっている。内部には貴重な金唐革紙の壁紙が貼られている。

https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/view035.html

ジョサイア・コンドルについて

ウイキペディアから引用します。

ジョサイア・コンドル(Josiah Conder、1852年9月28日 – 1920年6月21日) は、イギリスの建築家。明治10年に工部大学校(現・東京大学工学部)の造家学(建築学)教師として来日して西洋建築学を教えた。傍ら明治期の洋館の建築家としても活躍し、上野博物館鹿鳴館有栖川宮邸などを設計した。辰野金吾はじめ創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた。明治23年に退官した後も民間で建築設計事務所を開設し、ニコライ堂三菱1号館など数多くの建築物を設計した。

日本人女性を妻とし、日本画、日本舞踊、華道、落語といった日本文化の知識も深かった。河鍋暁斎に師事して日本画を学び、与えられた号は暁英。

ジョサイア・コンドル – Wikipedia

コンドルが設計したもので、現存し国の重要文化財に指定されているのは、この岩崎邸やニコライ堂など全国で4ヵ所あります。

和館について(国指定重要文化財)

東京都公園協会のサイトから引用してみます。

洋館と結合された和館は、書院造りを基調にしている。完成当時は建坪550坪に及び、洋館を遥かにしのぐ規模を誇っていた。現在は、洋館同様冠婚葬祭などに使われた大広間の1棟だけが残っている。施行は大工棟粱として、政財界の大立者たちの屋敷を数多く手がけた大河喜十郎と伝えられている。
床の間や襖には、橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる日本画など障壁画が残っている。
今は失われた岩崎家の居住空間は、南北に分けられ、南に久彌夫妻の部屋、子供部屋などが置かれた。北には使用人部屋、台所、事務方詰所、倉庫などがあった。

https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/view035.html

大工棟梁の大河喜十郎ですが、情報がありません。大工棟梁の社会的地位が当時は低かったということでしょうか。

和館は久弥とその家族が居住する空間であったとされます。

竣工当時の和館は広大な規模だったようですが、前述の略歴にあるように、昭和44年に司法研修所庁舎を建設するため、現在の大広間を残して3分の2は取り壊されています。

残念です。

岩崎邸に行くとわかりますが、近接地に違和感ありありの近代建築が建っています。それがこれです。

庭園について

江戸期に越後高田藩榊原氏、及び明治初期は舞鶴藩牧野氏の屋敷であった旧岩崎邸庭園の庭は、大名庭園の形式を一部踏襲していた。建築様式同様に和洋併置式とさ れ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残している。往時をしのぶ庭の様子は、江戸時代の石碑、和館前の手水鉢や庭石、モッコクの大木などに見ることがで きる。この和洋併置式の邸宅形式は、その後の日本の邸宅建築に大きな影響を与えた。

https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/view035.html

洋館の地下道をレポートする

冒頭でもご案内した通り、東京都は、コロナ禍で中断していた「洋館・撞球室地下道ツアーガイド」をこの9月から再開しました。

通常は地下室は非公開なのですが、毎月15日の10時と13時に各回10名限定先着順でガイドをしてくれます。

但し、撮影禁止。

下の写真は、撞球室に通じる白い釉薬を塗って造られた煉瓦のトンネルですが、案内板の写真を拝借しました。

地下のすべてを観られるわけではないのですが、撞球室までの通路づたいにコースが定められています。写真撮影が禁止なのは、足元が悪いのと通路が狭いこともあるでしょう。

それでは、案内頂いた内容を箇条書きにダイジェストでお伝えしましょう。

  • 昭和初期の物騒な世情を反映し、不忍池方面に暗殺防止非常用トンネルが掘られた(現在は塗りつぶされている)。
  • 洋館一階の大階段下から螺旋階段で地下へ下りられる。
  • ワインや日本酒の貯蔵庫もあった。
  • キッチンは当初地下室であったが、使い勝手が悪く、のちに一階に移した。
  • 使用人の居住空間も当初はあったようだが、居心地悪くみんな一階に移動した。
  • 地下室は洋館の土台としての役割や、倉庫の役割が大きかった。
  • 土台として煉瓦(サクラの刻印=小菅の煉瓦=通称/囚人煉瓦)の柱がいくつも組まれていて、関東大震災でもびくともしなかった。サクラの刻印は看守の制服ボタン。
  • 煉瓦積みはJ.コンドルの出身であるイギリス積み。煉瓦の接着には日本製のセメントモルタルが使われた。
  • 電線の碍子(ガイシ)は国産の深川碍子(有田焼/香蘭社)が使われた。
  • 地下の天井は一枚板なので一階の足音がするが、二階の床下は二重にして防音構造にしている。
  • 地下通路の棚には、米軍接収時にペンキで塗られた貴重な壁紙が保管されている。
  • 撞球室へ通じるトンネルは白い釉薬を塗って造られた煉瓦で、ドイツ積みである。
  • 撞球室は昭和10年代は図書室で、戦後は一時期礼拝堂(聖公会神学院)であった。
  • ビリヤード台の下にはコンクリートの土台が打ってある。

と言うようなベテランガイドさんのユニークかつ、内容の深い案内を聴くことができます。ぜひ、実際に行ってみて体験してみてはいかがでしょうか。

ちなみに煉瓦のウンチクについては、管理人もマイブログにアップしていますからご参考に!!!

野木町煉瓦窯を訪ねる

特別ガイドですが、毎日15日の10時の回であれば、9時少し前に並べば楽にゲットできると思います。

東京都の国宝、重要文化財(建造物)について

この数か月、首都圏にある建造物で国指定の国宝や重要文化財を数多く訪ねてきました。その中で東京都内に存在する建造物のうち、明治維新以降に住居として使われたものを、文化庁データベースから抽出してみました。

三つの条件

  • 国宝または国指定重要文化財であること
  • 東京都内であること
  • 明治以降に建てられた「住居」であること

なぜかと言うと、明治や大正時代、昭和初期に建てられたものは、まさに文明開化を象徴して、材料や意匠設計が素晴らしく、インスタ映えするからです。

全部で10ヵ所あります。

〇が既に訪問してアップしたところ、△が近々訪問予定(予約)のところ、×が非公開または限定公開で訪問の予定が立たないところです。

  • 〇旧朝倉家住宅…国指定重要文化財 2023.12.12
  • 〇旧磯野家住宅…国指定重要文化財 2023.12.11
  • 旧岩崎家住宅…国指定重要文化財
  • 〇旧朝香宮邸…国指定重要文化財 2023.11.15
  • 〇旧前田家本邸…国指定重要文化財 2023.11.21
  • △旧渋沢家飛鳥山邸…国指定重要文化財
  • △旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)…国宝 年内にツアー予約済
  • ×旧久邇宮邸…国指定重要文化財 聖心女子大キャンパス内 毎年3月ごろの予約ツアー申込要
  • ×旧島津家本邸…国指定重要文化財 清泉女子大キャンパス内 春と秋の予約ツアー申込要
  • ×旧馬場家牛込邸…国指定重要文化財 耐震補強工事中のため非公開?(未確認)

アクセス

上野の不忍池から望む崖上にあります。有名な「無縁坂」を回り込むと、大きく高い石塀がそびえ建っています。夏目漱石もこの辺りを散歩していたはずです。

電車の駅は近くにたくさんありますから、詳細は割愛します。

おすすめは、上野駅で下車して、ぶらりと不忍池から東天紅の左を入り、無縁坂を上って邸の外周を一回りすると、新しい発見があったりします。

今回は少し長くレポートさせていただきました。

それでは、マイYouTube動画でご覧下さい。

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